3.鬼ごっこ
一人で居る時は、何も難しいことはなくて。この体と心はとても自由で、手も足も好きな方へと動かせた。
クッキーは美味しくて、ココアは甘いまま。飲み込むことや噛んだりすることが、分からなくなんかならない。
一人で居るときは、自分の顔が怪獣みたいになっていないか気にしなくていいし、一人で居るときは、ほどよいお喋りだって自由にできる。
私の声はおかしくならないまま、春の風がいとおしそうに抱き締めたまま、菜の花まで運んでいく。
ひとりの時は、何も恥ずかしくならない。怖くなんかならない。ひとりの時は、目がないのだ。目は、とても怖い。少し長いトンネルより、ずっと怖い。食べもしないのに、食らおうとする目だからだ。いたぶる目だからだ。それがなければ、私はとても心地よく生きていられる。
―鬼ごっこ―
この世界に、ひとりしか嵌まることが出来ないくぼみを、この世界にいる人の数だけ作れたら、世界は迷路みたいにいりくんでしまうのかな。と、昼休み、図書室の本棚の陰に隠れながらそんなこと思った。
図書室の好きなところは、例え他の目が合っても、私を見てないところだ。みんなが自分のしたいことをして、人のことを気にしないから、私は私でいられる。お喋りをしたら怒られる場所。なんて良いところなんだろう。話すことは、とても怖いことだし、話すときにどこを見ればいいのか分からなくなる。そうしている内に、何を話しているのかも分からなくなってきて、息がどんどん続かなくなってきて、最終的に訳の分からない内に、訳の分からないまま簡単な返事だけしてしまうのだ。そして、その簡単な返事はいつか、私にたくさんの迷惑を持ってくる。
お母さんも、隣のおばさんも、おばあちゃんも、先生も、テレビの中の人たちも、友達を作った方が良いと言う。友達を作ろうとして作れるなら、世の中から戦争なんてなくなりませんか?と、いつぞやラジオで友達がいない事をバカにされた芸人さんが怒っていた。それを聞いた他の芸人さんが飛躍しすぎだよと笑っていたけど(だからお前は友達がいないんだよといじられてた)、私は全くもってその通りだと思った。
昼休みがもうすぐ終わる事に気づいた私は、何回も読んだ本を本棚へと戻した。廊下からは女の子たちがはしゃぐ声。私はそれを遠くに聞きながらどうしてこの本をまた手に取ったのか考え始めた。たまに、まだ読んだことのない本を読みたくない日がある。今日はそんな日だった。そんな時は、決まって読む本が何冊かある。理由は分からない。同じページの同じところから、いつも読み始めるのだ。
次の授業は音楽室で音楽の授業だ。リコーダーが上手く演奏できない。隣でいつも同じところを間違える子が居る。また間違えるんだろうなあと思うようになったら、私がその次の次あたりで、いつも間違えるようになった。つられてしまうんだろうか。私にもよく分からないけど、どうしてかそうなってしまうのだ。その時、私は顔がかあっと熱くなる。そうこうしてる内に、指が十本じゃ足りないよと思いたくなるほど早く指を動かさなければならないパートがきて、どうしてか、何故なのか、みんなが次々と間違っていく中、私も隣の子も、そこだけはいつも間違えない。
「では、今日もカノンの練習を行いましょう。十分後にみんなで一斉に演奏するので、それまではそれぞれ苦手なところ練習して下さい」
先生がそう話し終えると、みんなそれぞれ練習を始めた。ひとりで練習するときは、例の場所を間違えた事が実は一度もない。何故か、みんなと合わせると間違えてしまう。私がいつも間違える場所は、とても簡単なところ。どうして間違えてしまうのか、自分でも分からない。きっと、私はリコーダーの演奏ひとつとっても、周りと息を合わせるのが苦手なのだ。同じものを同じテンポで演奏しているはずなのに、私はまるで追いかけられているような気持ちになってきて、いつもの所はまるで曲がり角。そこで挟み撃ちにでもあったような、そんな気分になるのだ。
ふと、隣から聞こえたいつものところ。彼女は熱心に同じ所だけ繰り返している。彼女はひとりで吹いても、同じ所だけを間違える。一小節を演奏するだけならなんとかいけるけど、少し前から始めると、そこに同じ罠がしかけられてるとでも言いたげに、つまずいてしまうようだ。ああ、また。
「ふぅ」
彼女から苛立ったため息が漏れた。そして私の視線に気づいたのか、「いつもここで捕まっちゃう」と言うので、私は思わず「誰に?」と尋ねた。それに彼女は「カノンの魔物だよ。決まってるじゃない」と答えた。
「魔物なんか居るの?」
「居るよ。ほら、オリンピックにも魔物が居るってよくテレビでやってるじゃない」
「ふうん?」
彼女は冗談が通じないのねとでも言いたげな目を私に寄越した。それに気まずくなった私はリコーダーを咥えて練習を再開した。
もし、カノンに魔物が潜んでいるとしたら。私たちは、毎度毎度の音楽の授業中、その魔物から逃げ回っている事になるのだろうか。少し、想像したら面白かった。私たちは息を弾ませながら逃げ回っている。リコーダーは吐く息の強弱で音色が変わってしまう。カノンの魔物が好きなのは、きっと失敗した時に出てしまうような、上ずった酷い音なのだ。だから、彼女が間違えたのを聞き付けるとどこからか飛んでやってきて、その次はお前が聞かせろと、私の背中を追いかけ始める。そうしていつもの所で私が捕まると、高笑い。それそれ、次はあそこであいつが、今度はあの子。
ほらほらだんだん、指は足らないし、呼吸は苦しくなってきた。あっちでもこっちでも。魔物の思い通り。なんてひとり勝ちの鬼ごっこ。カノンの魔物は、今日も面白がって私たちを追いかけてくる。
「それでは、皆さんで合わせましょう」
先生が指揮棒を振り上げた。私は始まる前にと、手汗をズボンで拭った。さあ、魔物との鬼ごっこが始まる。そう思ったら、いつもよりぐっと肩に力が入って、すぐの所で間違えてしまった。それに、最近上手くなってきて間違えなくなってきたクラスの皆が、面白かったのか吹き出して、あちこちから崩れたリコーダーの音が聞こえてきた。
「お前っ!ぶはっ!ありえねーし!」
笑いが止まらないのか、ひとりの男子が立ち上がるとわざわざ振り返って私を指差した。私はかあっと頬が熱くなるのを感じた。違うんだもの。私のせいじゃない。言うなれば、私は開始早々、魔物に飛び付かれたのだ。聞かせろ!って。抱きつかれたのだ。
そう空想を巡らせてると、先生が苦笑いをしながら「こらこら。もう。初めからやり直しね」と言って、男子に座るよう促した。私は空想を止めて、楽譜を睨み付けた。魔物め!楽譜に封じ込めてやる!と、そんな意気込みで。すう、とみんなに合わせて息を大きく吸い込んだ。
「はい、皆さんだいぶ上達しましたね。今日はいつもより間違えが少なかったです。この調子で頑張りましょう」
演奏が終わった。私は、勝った!と、心の中でガッツポーズをした。一度も魔物に捕まることなく走り抜けたのだ。私は楽譜の中で踊るようなおたまじゃくしたちにそっと笑みを向けた。協力を、ありがとう。と、また空想を始めた。このおたまじゃくしたちは、魔物から私を逃してくれる道しるべなのだ。
「よかったね。お互い」
授業が終わり、みんなが音楽室から出ていく道すがら、隣の女の子がそう声をかけてくれた。私は何故だか、同じようにいつもの所で捕まらずに逃げ切った彼女の事がとても、自分の味方のように思えた。同じ魔物から、逃げ切った同士。彼女のほっとした顔が、とても優しいように見えて。私はいつものように強ばらずに、彼女と話すことが出来ていた。
そして私は、その日の放課後に彼女の名前を知った。転校してからいつまでも出来なかった友達が、やっと出来た。
いきなり知らない場所に来て、一人が良いと暗転した世界から私を追い出してくれたのは、もしかしたら、カノンの魔物なのかもしれない。
おしまい